君のシャンプー
「ねぇ、いい加減自分のシャンプー置いておきなよ」
何度目かの台詞を呆れながら君は吐く。
「そのうちね」
君はわたしのこだわりの強さをよくよく知っている。君の洗面台にはわたしの基礎化粧品がずらり。ヘアオイルもボディクリームも、なんとバストクリームだって置いてある。お風呂場にはわたしの石鹸とバスリリー。でもシャンプーだけは置いていない。
平日、わたしは仕事から自分の家に帰り、お風呂に入ったあと入念に髪を乾かす。香るのはわたしのではなく、君のシャンプーの香り。君のシャンプーは、わたしのシャンプーより少しだけ香りが強い。髪を洗ったあとだけは、わたしは君の香りに包まれる。
あと2日は、わたしの髪はきっと君と同じ香り。君に会える週末までは保たないけれど。まだ、君の家にわたしのシャンプーは置かない。
死に迎え入れられるには未熟過ぎる
雲の向こうにうっすらと月の輪郭が見える夜、ミドルヒールの音が小刻みに響く。
どうしよう、謙吾、もう帰ってきちゃってるかな。夕飯の仕込みはもう終わってるけど、こんなに遅くなるなんて……。
焦る気持ちとともに玄関ドアを開ける。
「おかえり」
謙吾の態度は普通だった。遅くなったことを詰るでもなく、その理由を尋ねるでもなく、普通だった。
二人で穏やかに雑談しながら晩酌し、いつもより少し早くベッドに入った。
息ができない。
由紀は違和感にうっすらと目を開けた。
息ができない……苦しい……首、首に何が……。
暗がりでよく見えないが、首のあたりに圧迫感がある。
謙吾が由紀に馬乗りになり、首を絞めていたのだった。ちょうどそれに気付いた時、謙吾の後ろの窓から月明かりが差し込む。ぼうっと謙吾のシルエットが浮かび上がるも、その表情は全くうかがえない。
反射的に、由紀は首を絞める謙吾の腕に手をかけた。
あ、明日の青木さんとの打ち合わせ、10時半からだったっけ……。
謙吾の腕にかけた手の力がふっと抜け、由紀は、笑った。
なおも謙吾は由紀の首を絞め続けていたが、その力はだんだんと緩んでいった。
それから1週間ほど経ったある朝、書置きを残して謙吾は家を出た。
このままだと俺は由紀に甘えたままになってしまう。由紀はそれでいいと言うかもしれないけど。
謙吾らしくない短文だった。
仕事で帰りが遅くなると明け方まで不安をぶつけてきたり、仕事中でも不安だって電話かけてきたりしたのに、別れの言葉はシンプルなのね。
謙吾の心には簡単には癒やせない傷があった。由紀はその傷に真摯に向き合ってきたつもりだった。自分にもそんな傷があったから。二人ならその傷を癒やし合いながら生きていけると思っていた。
どうにもならなければ、死をも厭わないつもりだった。
どうしてあの時謙吾は手を緩めたのだろうか。
由紀は、謙吾が去って1年経っても、彼は今頃どこでどうしているのかと頻繁に案じてしまう。
あの時謙吾はどんな顔で首を絞めていたんだろう。あのまま二人で終わりにしてもそれはそれでよかったかもしれないのに。でも……。
わたしたちは煩悩にまみれていて、死に迎え入れられるには未熟過ぎる。
1年経った今も、由紀は何故あの時自分が笑ったのかわからないままだ。
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祖母がいない日々
先日祖母が亡くなった。脳卒中で倒れた日から、ぴったり1ヶ月後だった。
祖母が亡くなった日から少し時間が経った今でも、信じられない。頭では祖母が亡くなったことは理解している。そして悲しい。でも、おそらく、わたしの心は祖母の死をまだまだ受け入れられていないのだ。
変な話だが、今日は豚汁の具を炒めている時に祖母が料理する姿を思い出して涙し、アイロンをかけながら、帰省時に祖母がいつも丁寧にアイロンをかけていてくれたことを思い出して涙した。昨日は野菜を切っている時に、祖母がわたしの代わりに薬味をみじん切りにしてくれたことを思い出して、泣いた。ちなみに、今も泣きながらこれを書いている。
つまり、ことあるごとに祖母のことを思い出しては子どものように涙を流しているのだ。(恥ずかしいけれど、風呂でひとりになると少し声を出して泣いてしまう。ここのところ毎日)
とはいえ、一応は普段どおりに生活している。死後のバタバタで手をつけられなかった依頼をひとつひとつこなしたり、子どもの習い事に行ったり、ママ友の飲み会に出たり。
でも、ふとした瞬間にどうしようもなく悲しくなってしまう。きっと、わたしにとって、祖母はわたしが思う以上に大きな存在なのだ。
少し祖母のことを書く。
祖母は昭和一桁世代の生まれ。だから、当然戦争を経験し、苦労を重ねてきた。でも、これだけ苦労した、と人にくどくどと話すような人ではなく、わたしが祖母の苦労を知ったのはわりと最近だ。
都内の今では高級住宅地と呼ばれる場所で生まれたが、戦争で兄弟姉妹とともに東北へ疎開。そのまま死ぬまでずっと東北に住んでいた。
わたしが子どもの頃は戦争の話を聞いたことはなかったが、近年は何故かぽつりぽつりと漏らすようになっていた。同時に亡き祖父との残念な思い出も。
祖母は働いたことこそなかったが、洋裁和裁が得意で、ワンピースやスカートなど、わたしが小さい頃からたくさんの服を作ってくれた。七五三の着物や浴衣も。七五三の着物はわたしの娘にも着せ、その姿を見せてあげることもできた。
料理や掃除も得意で、友だちから新しいレシピを仕入れたり、キッチンはいつもピカピカだったりと、まめな人だった。本当に、祖母は丁寧に生きていた人だったと思う。
そんな祖母は、いつもわたしの自慢だった。どこか品があり、友だちの祖母とは違う、という印象を子どもの頃から持っていた。(これには弟も同意していた……。葬儀に来てくださった祖母のお友だちもとても上品で、祖母の死を心から悼んでいるのが伝わってきた)
祖母が亡くなったのは、祖父が亡くなった時と同じ年齢。自分の死期をある程度悟っていたのかもしれない。
あれほど人に譲るのを嫌がっていたとある値打ちのある品々は、ほとんどなくなっていた。突然、以前から欲しがっていた方に分けたのだそうだ。
葬儀場も、呼ぶ人も、精進落としの内容と数も、香典返しの品も、すべて決めていた。自分で下見をし、費用が安くなるように前金まで納めていたらしい。長患いもせず、最期まで、迷惑をかけないようにと、ひとに尽くす人だった。
最期くらい、迷惑かけてもいいのに。回復するかと思ったのに。あっさりと、祖母は逝ってしまった。
ひとつだけ、わたしにとっての救いがある。
なんとか時間を作って会いに行った日、祖母はしっかりと目を開けてわたしの顔を見て、話をしてくれた。ずっと付きっきりだった母曰く、わたしが見舞った日が一番意識がはっきりしており、よく喋ったそうだ。
あの日会いに行かなかったら、わたしはもっと落ち込み、後悔していたのかもしれない。(感情に数値はないけれど)
親しい人のみにお別れをする時間を残したようにも思えると、母が苦笑いしていた。悲しいけれど、祖母らしい最期だ。
ライターのくせに筆不精
前回の記事からずいぶん時間が経ってしまったなぁ。
でも、ありがたいことに仕事が増えて書く時間があまりないという理由を付けて、良しとしよう。(おい)
最近、なんでわたしライターなんだっけ?と思う。
そしてどうやってライターになったの?と聞かれることも案外多い。
そのうちちゃんと記事にしよう。わたしがライターになった理由とその経緯。
忘れないようにここに書いておく。メモしておいてもずるずる書かなそうだけど。
いや、書く。たぶん。
映画『エル ELLE』についての覚え書き
ダンケルクより前ですが、映画『エル ELLE』を観てきました。
えーーー。まず誤解されないように初めに言っておきます。
エルはとても興味深い映画でした。女性が抱える様々な問題提起とそれに対する答え、女性への尊敬、そして何より主演のイザベル・ユペールの演技はとても説得力があり、素晴らしかった。
ただ、ただね、わたしが勝手に違う方向の想像をしていただけなの…!
エルを観る前に見たサイトでは、
自宅で覆面の男に襲われたミシェル 元夫、恋人、部下、隣人ーーーすべてが疑わしい
犯人探しは、ところが、彼女の恐るべき本性をあぶり出していくことにーーー
とあったのだけれど、観たあとの率直な感想は、
「え?恐るべき?どこが!?」でした。
「襲われた」「犯人探し」「恐るべき本性」というキーワードから、わたしが勝手に『シークレット・ウィンドウ』みたいな自分が実は犯人でしたネタを想像してしまっていたのね。ごめんなさい。
それにね、過去に犯罪に巻き込まれた(これも実は彼女が犯人なんじゃ?なんて想像しないこともないんだけれど…むしろ彼女がやってたらそれこそ恐ろしいね)経験があるんだから、警察に頼りたくないのは理解できるし、ましてや性犯罪だし、あれだけ気の強い女性なら自衛・犯人探しくらいしそうなものだし…決して「恐るべき本性」とは思えなかったのよね。
むしろ同じ女としてかっこいいとすら思った。
最後のシーンはどこまでが計算なのか、偶然なのか(これはまずないわね)、彼女が狂っているのか、という謎はある。でも、その謎を考察するのはとても面白い。どちらかわからないからいいんだろうな。
そんなわけで、面白かったけれど、個人的には宣伝文句が合ってないんじゃないかしら、と思ったという話でした(強引にまとめた)
ダンケルクについて語る ※9/30追記
ダンケルクはいいぞ
ダンケルク、本当に良かった(語彙力)。クリストファー・ノーラン監督最高過ぎて怖い。
まず、ダンケルクは観る映画ではなく体験する映画。ツイッターでも言ったように、できるだけIMAXで見てほしい。わたしも本当は大阪まで行ってでっかい画面で見たいところだけれど、残念ながらさすがにそこまでは無理…。でも行きたい。
ちなみに、2回(1度目はひとり、2度目は夫と)観に行った。既にまた観たい。
ダンケルクのいいところについては多くの人が書いているので、ちょっと気になったところ、わたし個人の感想、否定的な意見に対する反論などを記しておく。
ダンケルクには本当に「感情移入」できない?
ダンケルクは、余計なものはとことん削ぎ落としている映画。撤退(防波堤)・防衛(空)・救助(海)それぞれの動きをリアルに表現するために、登場人物のいわゆる内面描写がカットされているのだそう。
確かに、セリフは極めて少ない。実のところ、わたし自身、時代背景と大まかなストーリーのみ確認し、キャラクターについては知らない状態で鑑賞したため、エンドロールを観て初めてフィン・ホワイトヘッドの役名が「トミー」だと知った。(2回目にみたときも確認したが、彼がトミーと呼ばれているシーンはなかったはず)
人間の「生きたい」欲が描かれている
ダンケルクでの内面描写や感情移入について語る上で忘れてはならないのは、この映画は「撤退」を描いているということ。ここがよく比較される「プライベート・ライアン」との大きな違いといえる。
進軍するのであれば、「勝ちたい」「生き残りたい」「戦果を残したい」「怖い」色々な思いがあるだろう。他の兵と出くわせば、名乗りあって自己紹介くらいはするだろう。しかし、撤退するときの人間の心中は?包囲され敵が刻々と迫ってきており、逃げなければならない状況では?
それは単純に「生きたい」「帰りたい」という気持ち。むしろそれしかない。しっぽを巻いて逃げるときに悠長に自己紹介している輩がどこにいようか。
こうして考えてみると、この映画には、登場人物個人の内面や葛藤を詳細に描写する必要がそもそもないと考えられる。
セリフはなくとも行動で内面がわかる
内面描写は重要ではないと述べたけれど、ダンケルクではきちんと最低限の描写はされている。ただ、言語になっていないものがほとんどというだけ。
野暮になるから詳しくは割愛するが、まず、マーク・ライランス演じるミスター・ドーソンに関する描写に関してはいうまでもない。
では、彼に助けられたキリアン・マーフィー扮する兵は?日本語では「謎の兵士」となっているが、英語では「shivering soldger」つまり震える兵。文字通り彼は終始おびえている。他人を傷つけてしまうほどに。
トミーやギブソン、ファリアやコリンズだって、その行動に内面が表れている。言葉で言わなくとも、彼らの表情や動きを見ていればおのずとわかるはず。
2度目の鑑賞ではひたすら感情移入しかない
おもしろいことに、2度目に鑑賞した時は、むしろ感情移入しまくってしまった。展開がわかっているからこそ、「つらいよね」「こわいよね」「助けたいよね」と気持ちが入ってしまうのだろう。
人の死が描かれていない?
こちらもまた「プライベート・ライアン」と比較されて出てくる話題。リアルな血の描写がないという批判がある。
グロ描写がほしいなら他の映画へどうぞ
これに関してはもう、「そういう映画じゃないから」というしかない。血肉が吹っ飛ぶ様子をしっかり描いている映画は他にあるから、回れ右で。
繰り返しになるけれど、ダンケルクはそういう映画ではない。描く必要性がそもそもない。
人は十二分に吹っ飛んでいる
映画開始早々、爆撃を受け、トミーのすぐそばにいた人間が吹っ飛ばされる様子が描かれている。桟橋でも人が吹っ飛び、沈没する船に乗った負傷兵はそのまま沈み、重油にまみれた兵は爆発に巻き込まれて焼かれる。これのどこが「人の死を描いていない」のか、わたしにはよくわからない。
血の描写について
グロ描写の話をしたので、ここでダンケルクにおける血の描写について記しておきたい。
はっきりとわかる血は2つ
血が出てくるのは、トミーとギブソンが運ぶ負傷兵が映ったときと、謎の兵士がジョージを(故意ではないが)突き落としてしまったとき。
この2つの場面に共通しているのは、自身の生存のために他人が犠牲になったということではなかろうか。トミーとギブソンは自分たちが救助船に近づくために負傷兵を担ぎ、謎の兵士は故郷に帰りたいがために激しく抵抗し、結果的にジョージを死なせてしまった。
わたしの考え過ぎかもしれないけれど、他人の命を救うために危険を顧みず救助に向かった者たちを描くダンケルクでの血の描写には、やはり意味があるのではないか。
続く…かも。
気分が乗ったので、以下追記。
暗い音楽が明るくなる瞬間
血の描写と同様、明るく耳触りの良い音楽はほとんどダンケルクでは流れない。シ・ラ・ミの音が目立ち、どんどん追い詰められていくような、時に機械的な音が響いている。明るめの音楽が流れる場所も限られている。
わたしが覚えているのは、ファリアが帰りの分の燃料がないことを知りながらもドイツ軍の攻撃をとめようと決意した場面、ダンケルクの防波堤に一般市民の救助船が現れた場面、エンディングの3つ。そのどれもが、自分の危険を顧みずに他人を助けようとする場面だったと思う。
血の描写とは対照的な心地好い音楽
血の描写が最小限にとどめられているように、明るい音楽が流れる場面にも何か意味があるように思える。個人的な見解だけれど。
血が見えるのは誰から自分のために犠牲を強いてしまったとき、音楽が明るくなるのは誰かが自分を犠牲にしようとしたとき。全く逆の場面となっている。ダンケルクには無駄が一切ない、ひとつひとつの描写、表現に意味があると思える。