ダンケルクについて語る ※9/30追記
ダンケルクはいいぞ
ダンケルク、本当に良かった(語彙力)。クリストファー・ノーラン監督最高過ぎて怖い。
まず、ダンケルクは観る映画ではなく体験する映画。ツイッターでも言ったように、できるだけIMAXで見てほしい。わたしも本当は大阪まで行ってでっかい画面で見たいところだけれど、残念ながらさすがにそこまでは無理…。でも行きたい。
ちなみに、2回(1度目はひとり、2度目は夫と)観に行った。既にまた観たい。
ダンケルクのいいところについては多くの人が書いているので、ちょっと気になったところ、わたし個人の感想、否定的な意見に対する反論などを記しておく。
ダンケルクには本当に「感情移入」できない?
ダンケルクは、余計なものはとことん削ぎ落としている映画。撤退(防波堤)・防衛(空)・救助(海)それぞれの動きをリアルに表現するために、登場人物のいわゆる内面描写がカットされているのだそう。
確かに、セリフは極めて少ない。実のところ、わたし自身、時代背景と大まかなストーリーのみ確認し、キャラクターについては知らない状態で鑑賞したため、エンドロールを観て初めてフィン・ホワイトヘッドの役名が「トミー」だと知った。(2回目にみたときも確認したが、彼がトミーと呼ばれているシーンはなかったはず)
人間の「生きたい」欲が描かれている
ダンケルクでの内面描写や感情移入について語る上で忘れてはならないのは、この映画は「撤退」を描いているということ。ここがよく比較される「プライベート・ライアン」との大きな違いといえる。
進軍するのであれば、「勝ちたい」「生き残りたい」「戦果を残したい」「怖い」色々な思いがあるだろう。他の兵と出くわせば、名乗りあって自己紹介くらいはするだろう。しかし、撤退するときの人間の心中は?包囲され敵が刻々と迫ってきており、逃げなければならない状況では?
それは単純に「生きたい」「帰りたい」という気持ち。むしろそれしかない。しっぽを巻いて逃げるときに悠長に自己紹介している輩がどこにいようか。
こうして考えてみると、この映画には、登場人物個人の内面や葛藤を詳細に描写する必要がそもそもないと考えられる。
セリフはなくとも行動で内面がわかる
内面描写は重要ではないと述べたけれど、ダンケルクではきちんと最低限の描写はされている。ただ、言語になっていないものがほとんどというだけ。
野暮になるから詳しくは割愛するが、まず、マーク・ライランス演じるミスター・ドーソンに関する描写に関してはいうまでもない。
では、彼に助けられたキリアン・マーフィー扮する兵は?日本語では「謎の兵士」となっているが、英語では「shivering soldger」つまり震える兵。文字通り彼は終始おびえている。他人を傷つけてしまうほどに。
トミーやギブソン、ファリアやコリンズだって、その行動に内面が表れている。言葉で言わなくとも、彼らの表情や動きを見ていればおのずとわかるはず。
2度目の鑑賞ではひたすら感情移入しかない
おもしろいことに、2度目に鑑賞した時は、むしろ感情移入しまくってしまった。展開がわかっているからこそ、「つらいよね」「こわいよね」「助けたいよね」と気持ちが入ってしまうのだろう。
人の死が描かれていない?
こちらもまた「プライベート・ライアン」と比較されて出てくる話題。リアルな血の描写がないという批判がある。
グロ描写がほしいなら他の映画へどうぞ
これに関してはもう、「そういう映画じゃないから」というしかない。血肉が吹っ飛ぶ様子をしっかり描いている映画は他にあるから、回れ右で。
繰り返しになるけれど、ダンケルクはそういう映画ではない。描く必要性がそもそもない。
人は十二分に吹っ飛んでいる
映画開始早々、爆撃を受け、トミーのすぐそばにいた人間が吹っ飛ばされる様子が描かれている。桟橋でも人が吹っ飛び、沈没する船に乗った負傷兵はそのまま沈み、重油にまみれた兵は爆発に巻き込まれて焼かれる。これのどこが「人の死を描いていない」のか、わたしにはよくわからない。
血の描写について
グロ描写の話をしたので、ここでダンケルクにおける血の描写について記しておきたい。
はっきりとわかる血は2つ
血が出てくるのは、トミーとギブソンが運ぶ負傷兵が映ったときと、謎の兵士がジョージを(故意ではないが)突き落としてしまったとき。
この2つの場面に共通しているのは、自身の生存のために他人が犠牲になったということではなかろうか。トミーとギブソンは自分たちが救助船に近づくために負傷兵を担ぎ、謎の兵士は故郷に帰りたいがために激しく抵抗し、結果的にジョージを死なせてしまった。
わたしの考え過ぎかもしれないけれど、他人の命を救うために危険を顧みず救助に向かった者たちを描くダンケルクでの血の描写には、やはり意味があるのではないか。
続く…かも。
気分が乗ったので、以下追記。
暗い音楽が明るくなる瞬間
血の描写と同様、明るく耳触りの良い音楽はほとんどダンケルクでは流れない。シ・ラ・ミの音が目立ち、どんどん追い詰められていくような、時に機械的な音が響いている。明るめの音楽が流れる場所も限られている。
わたしが覚えているのは、ファリアが帰りの分の燃料がないことを知りながらもドイツ軍の攻撃をとめようと決意した場面、ダンケルクの防波堤に一般市民の救助船が現れた場面、エンディングの3つ。そのどれもが、自分の危険を顧みずに他人を助けようとする場面だったと思う。
血の描写とは対照的な心地好い音楽
血の描写が最小限にとどめられているように、明るい音楽が流れる場面にも何か意味があるように思える。個人的な見解だけれど。
血が見えるのは誰から自分のために犠牲を強いてしまったとき、音楽が明るくなるのは誰かが自分を犠牲にしようとしたとき。全く逆の場面となっている。ダンケルクには無駄が一切ない、ひとつひとつの描写、表現に意味があると思える。