死に迎え入れられるには未熟過ぎる
雲の向こうにうっすらと月の輪郭が見える夜、ミドルヒールの音が小刻みに響く。
どうしよう、謙吾、もう帰ってきちゃってるかな。夕飯の仕込みはもう終わってるけど、こんなに遅くなるなんて……。
焦る気持ちとともに玄関ドアを開ける。
「おかえり」
謙吾の態度は普通だった。遅くなったことを詰るでもなく、その理由を尋ねるでもなく、普通だった。
二人で穏やかに雑談しながら晩酌し、いつもより少し早くベッドに入った。
息ができない。
由紀は違和感にうっすらと目を開けた。
息ができない……苦しい……首、首に何が……。
暗がりでよく見えないが、首のあたりに圧迫感がある。
謙吾が由紀に馬乗りになり、首を絞めていたのだった。ちょうどそれに気付いた時、謙吾の後ろの窓から月明かりが差し込む。ぼうっと謙吾のシルエットが浮かび上がるも、その表情は全くうかがえない。
反射的に、由紀は首を絞める謙吾の腕に手をかけた。
あ、明日の青木さんとの打ち合わせ、10時半からだったっけ……。
謙吾の腕にかけた手の力がふっと抜け、由紀は、笑った。
なおも謙吾は由紀の首を絞め続けていたが、その力はだんだんと緩んでいった。
それから1週間ほど経ったある朝、書置きを残して謙吾は家を出た。
このままだと俺は由紀に甘えたままになってしまう。由紀はそれでいいと言うかもしれないけど。
謙吾らしくない短文だった。
仕事で帰りが遅くなると明け方まで不安をぶつけてきたり、仕事中でも不安だって電話かけてきたりしたのに、別れの言葉はシンプルなのね。
謙吾の心には簡単には癒やせない傷があった。由紀はその傷に真摯に向き合ってきたつもりだった。自分にもそんな傷があったから。二人ならその傷を癒やし合いながら生きていけると思っていた。
どうにもならなければ、死をも厭わないつもりだった。
どうしてあの時謙吾は手を緩めたのだろうか。
由紀は、謙吾が去って1年経っても、彼は今頃どこでどうしているのかと頻繁に案じてしまう。
あの時謙吾はどんな顔で首を絞めていたんだろう。あのまま二人で終わりにしてもそれはそれでよかったかもしれないのに。でも……。
わたしたちは煩悩にまみれていて、死に迎え入れられるには未熟過ぎる。
1年経った今も、由紀は何故あの時自分が笑ったのかわからないままだ。