ひつじわにの脳みそ

子持ちwebライター・校正校閲者ひつじわにのまとまらない考えをまとめるつもりもなくただ垂れ流すだけのメモのようなものです。気分によって口調が変わります。

祖母がいない日々

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先日祖母が亡くなった。脳卒中で倒れた日から、ぴったり1ヶ月後だった。

祖母が亡くなった日から少し時間が経った今でも、信じられない。頭では祖母が亡くなったことは理解している。そして悲しい。でも、おそらく、わたしの心は祖母の死をまだまだ受け入れられていないのだ。

変な話だが、今日は豚汁の具を炒めている時に祖母が料理する姿を思い出して涙し、アイロンをかけながら、帰省時に祖母がいつも丁寧にアイロンをかけていてくれたことを思い出して涙した。昨日は野菜を切っている時に、祖母がわたしの代わりに薬味をみじん切りにしてくれたことを思い出して、泣いた。ちなみに、今も泣きながらこれを書いている。

つまり、ことあるごとに祖母のことを思い出しては子どものように涙を流しているのだ。(恥ずかしいけれど、風呂でひとりになると少し声を出して泣いてしまう。ここのところ毎日)

とはいえ、一応は普段どおりに生活している。死後のバタバタで手をつけられなかった依頼をひとつひとつこなしたり、子どもの習い事に行ったり、ママ友の飲み会に出たり。

でも、ふとした瞬間にどうしようもなく悲しくなってしまう。きっと、わたしにとって、祖母はわたしが思う以上に大きな存在なのだ。

少し祖母のことを書く。

祖母は昭和一桁世代の生まれ。だから、当然戦争を経験し、苦労を重ねてきた。でも、これだけ苦労した、と人にくどくどと話すような人ではなく、わたしが祖母の苦労を知ったのはわりと最近だ。

都内の今では高級住宅地と呼ばれる場所で生まれたが、戦争で兄弟姉妹とともに東北へ疎開。そのまま死ぬまでずっと東北に住んでいた。

わたしが子どもの頃は戦争の話を聞いたことはなかったが、近年は何故かぽつりぽつりと漏らすようになっていた。同時に亡き祖父との残念な思い出も。

祖母は働いたことこそなかったが、洋裁和裁が得意で、ワンピースやスカートなど、わたしが小さい頃からたくさんの服を作ってくれた。七五三の着物や浴衣も。七五三の着物はわたしの娘にも着せ、その姿を見せてあげることもできた。

料理や掃除も得意で、友だちから新しいレシピを仕入れたり、キッチンはいつもピカピカだったりと、まめな人だった。本当に、祖母は丁寧に生きていた人だったと思う。

そんな祖母は、いつもわたしの自慢だった。どこか品があり、友だちの祖母とは違う、という印象を子どもの頃から持っていた。(これには弟も同意していた……。葬儀に来てくださった祖母のお友だちもとても上品で、祖母の死を心から悼んでいるのが伝わってきた)

祖母が亡くなったのは、祖父が亡くなった時と同じ年齢。自分の死期をある程度悟っていたのかもしれない。

あれほど人に譲るのを嫌がっていたとある値打ちのある品々は、ほとんどなくなっていた。突然、以前から欲しがっていた方に分けたのだそうだ。

葬儀場も、呼ぶ人も、精進落としの内容と数も、香典返しの品も、すべて決めていた。自分で下見をし、費用が安くなるように前金まで納めていたらしい。長患いもせず、最期まで、迷惑をかけないようにと、ひとに尽くす人だった。

最期くらい、迷惑かけてもいいのに。回復するかと思ったのに。あっさりと、祖母は逝ってしまった。

ひとつだけ、わたしにとっての救いがある。

なんとか時間を作って会いに行った日、祖母はしっかりと目を開けてわたしの顔を見て、話をしてくれた。ずっと付きっきりだった母曰く、わたしが見舞った日が一番意識がはっきりしており、よく喋ったそうだ。

あの日会いに行かなかったら、わたしはもっと落ち込み、後悔していたのかもしれない。(感情に数値はないけれど)

親しい人のみにお別れをする時間を残したようにも思えると、母が苦笑いしていた。悲しいけれど、祖母らしい最期だ。